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時代は変わる、世界の2大オートバイメーカーの戦略的提携

 ホンダとヤマハがオートバイの生産で提携するというニュースが報じられました。ヤマハは50CCバイクの製造を止め、ホンダからOEM供給を受けて販売を継続するということで、ホンダの50CCバイクに自社のブランド名を付けて販売することになります。これは、実質的に50CCバイクから撤退するということを意味し、二輪車業界を取り巻く構造的な不況の深刻さを物語っています。二輪車市場は、排気量1000CCを超える100万円以上の大型バイクはそれなりに売れているとはいえ、大きな市場を形成しているとはいえません。かつては飛ぶように売れていた50CCバイクも、電動自転車の登場によって市場を大きく減らし、最盛期の年間270万台から30万台にまで減少してしまいました。また、50CCと言えど環境と安全性への対応は避けられず、4サイクルエンジン、アイドルストップ、インジェクション(電子制御燃料噴射)、ABSやコンビブレーキ(前後同時制動)等の開発費とコストがかかる装備が必須になってきました。元々低価格が売りだった50CCバイクの事情に加え、販売の絶対数が見込めなければ、薄利多売でも利益が出ないため、自社で開発・製造するよりは、OEMで調達したほうがリスクも少なく、今後の市場規模を考えると賢明な判断だとも言えます。  このことは、ホンダにとっても願ったり叶ったりの提携話だったといえるでしょう。利幅の乏しい50CCバイク領域では、商品毎の販売数を拡大して効率を求める必要があるが、ヤマハルートでも販売できるようになるので、より高効率なビジネスにつなげることができます。なにより参入メーカーが減るので、実質的な競合はスズキだけとなります。  しかし、ヤマハが提携先にホンダを選んだことは、非常に驚かされました。なぜなら、かつて両社は日本の経済史上類を見ないほどの血みどろの戦争(「HY戦争と呼ばれる」)を繰り広げた歴史があるからです。  ヤマハ発動機(以降はヤマハと記載)は、楽器のトップメーカーの日本楽器製造(現在のヤマハ株式会社)のオートバイ部門として、浜松で産声をあげました。ピアノ作りでの木工ノウハウがあったため、太平洋戦争中は軍からの要請で「木工ノウハウを生かせば飛行機のプロペラ作れるだろう」ということで、軍用機の製造に携わっていました。終戦後はGHQから返却された設備を使ってバイクとエンジン作り、その後ヤマハ発動機として別会社になりました。設立9日後に初めて出場したバイクでレースに優勝するなど、伝説をいくつも残している名門企業です。  同じく浜松には、当時も発明家として有名だった本田宗一郎率いる本田技研工業(以降はホンダと記載)があり、宗一郎の類い希な技術センスと先見性で世界NO1の二輪車メーカーに駆け上がりました。ヤマハも世界2位のポジションまで成長したのは周知の通りですが、ホンダを追い越したいという意思は、創業時代から綿々とDNAに刻み込まれたものでした。  1970年代初頭のホンダは、世界首位はもちろんですがそのシェアは圧倒的なガリバーでしたが、1975年頃から活性化し始めた、50CCファミリーバイク市場を足がかりに、時流に乗ったのがヤマハです。1979年の上半期累計ではホンダがシェア40%で首位でしたが、2位のヤマハは36%と肉薄しました。特にファミリーバイクのシェアだけでいえば、ホンダを上回っていました。ホンダはファミリーバイク市場はいずれ失速するという予測で開発を絞っていましたが、ヤマハはまだまだ拡大するということで、リソースを集中投入させた結果です。    また、この時期のホンダは、好調な米国市場に後押しされて、四輪車の売上げが二輪車を上回り、四輪車メーカーへと大きく飛躍すべく事業を四輪車に集中させていました。こういった背景もあって、ヤマハ社内にも二輪車でホンダを追い抜こうという空気が生まれ、「ホンダに手が届くところまで来た、一気に抜き去って業界首位を奪おう」という大号令をかけました。NO2の強いところは、トップをとれるかもしれないという空気が醸成された瞬間に、社員全員のベクトルが一致し、通常では考えられないようなパワーを発揮することにあります。このときのヤマハも同じような状態でした。これまで以上のペースで新型車を開発、市場投入し、精力的に販路を拡大し、さらにシェアの差は縮まってきます。現場はヒートアップし、時にはホンダの販売店からヤマハ系列に鞍替えした店舗には、手厚い奨励金や販促金をだすなど、その手法もエスカレートしてきました。シェアは確実に上昇し、「ホンダ恐れるに足らず」等と言い出す管理職も出始めます。  この状況は、ホンダも注意深く観察し、反撃のタイミングを伺っていました。この時のホンダ社長は、本田宗一郎の後任で二代目の河島氏。本田宗一郎の陰に隠れて目立ちませんが、アメリカでの四輪車の販売を大きく伸ばして、現在のホンダ躍進の足がかりを作った、宗一郎とは違う面での天才経営者だといえる人物です。特に本田宗一郎から直接薫陶を受けていたこともあり、「うちはバイク屋」であり二輪車はホンダの精神的支柱、ヤマハの後塵を拝すなどはもっての他だと考える熱い男でした。一時的にヤマハに躍進されてしまったが、一気にシェアを奪い返す。ここからのホンダの攻勢は凄まじいの一言。四輪車に投入していた開発リソースを呼び戻し、毎週1機種の新製品を投入し、ヤマハのヒット製品にぶつけていきました。もちろん価格も手ごろ感をだし、ヤマハが大幅値引きをしていれば、それよりも安い価格で展開していきました。ヤマハの製品は途端に売上が鈍化しはじめますが、ヤマハも対抗せざるを得ず、値引き合戦に火が付きます。これには際限が無く、スーパーの福引きの景品に50CC スクーター、自転車を買うとおまけにスクーターがついてくる、1台3万円のスクーターなど、今では考えられないお化け販売が横行することとなりました。ついに両社の戦争は乱売合戦に入ります。総力戦になれば企業の基礎体力(財務や人財リソース、販売網など)がある方が有利です。そして、NO1企業の社員のベクトルは、NO2をたたきつぶすという命題で、簡単に一致させることができました。  NO1の怒濤の攻勢によって、ヤマハの二輪車は全く売れなくなり、みるみる倉庫は在庫で溢れかえり、なんと販売2年分相当数まで積み上がってしまいました。在庫の増大はすぐにキャッシュにインパクトし、運転資金が怪しくなってきます。在庫をさばくために、さらに値引きするという悪循環に陥り、気がつくと財務的には危篤状態と言えるところまで追い込まれていました。  もうダメだ、乱売合戦をやめなければ会社が保たない。ヤマハ社長は恥を忍んで負けを認め、ホンダの社長に「もうケンカは止めましょう」と謝罪と面会を打診しました。ホンダも苦しいはずなので、この面会は簡単に実現すると考えていましたが、ホンダからは、「ケンカ」という意味がわからない。通常のビジネスを行っているだけで、ケンカと言われるのは心外であると、面会依頼を突っぱねてきました。ヤマハ社長はこのときに業界首位の本当の恐ろしさを知って身震いしました。自分たちがケンカだと思っていても、相手がケンカではないというのでは話にならない。もう行き着くところまでいくしかない。    しかし、この前後から急に減速し始めた米国市場の影響もあり、ホンダも相当に苦しい状況にであったことや、通産省の指導もあり、日本自動車工業会で両社社長は9年ぶりに会い、ヤマハ側が土下座にも近い状態で戦争の終結を申し入れました。この戦争の結果、ホンダはシェアを50%近くまで確保し、ヤマハは3位のスズキにまでに追い抜かれてしまいました。ヤマハは社長以下役員9人の退任、降格とし、従業員700人のリストラが行われ、在庫の処理に10年近く悩まされることになります。これで80年から始まった「HY戦争」は83年はじめに集結しました。    そして2016、因縁の両社がオートバイ分野(50CCバイク)で提携するという、考えられないような話が持ち上がりました。それほどに市場がシュリンクした影響は深刻で、一国に4社ものオートバイメーカーが存在していること自体が、もはやあり得ない状態であると言えます。ホンダ、スズキは四輪車事業があり、カワサキは川崎重工の一事業部なので、バイク事業がシュリンクしたとしてもすぐに会社の存続に関わることはありませんが、ヤマハはオートバイが主事業なので、その状況は深刻です。近い将来、ホンダに飲み込まれるか、トヨタの傘下に入るか(ヤマハがトヨタのスポーツエンジンの開発に関わっているというのは有名な話。それだけヤマハのエンジン技術をトヨタが買っているということ)、外国の資本を受け入れて存続するという選択を迫られることになるでしょう。    かつて自社を完膚なきまでにたたきつぶされたホンダの力を借りた生き残り策とは、メンツもプライドもあったものではありませんが、ホンダとしてもそんな相手に救いの手をさしのべることが、自社が生き残る有効な道であることに気がつかされたことでしょう。それほどまでに人口減少、消費性向の大転換、環境への対応など、変化に追随することの難しさを物語っています。こういったなりふり構わない企業の合従連衡は他業界にも波及し、一層の企業の統廃合が加速していくことは間違いなく、思いも寄らなかった企業が手を組むという状況が見られることになるでしょう。

マンデー
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