今月8日(木)11時、気象庁は関東甲信地方が梅雨入りしたとみられるとの発表があった。
その2週間程前、道端に咲くとても美しい紫陽花を見ていた。梅雨の訪れは紫陽花が先に教えてくれるものなのだと感じ、自然からのメッセージをきちんと受け取る感性を忘れていた自分に気づかされた。
6月に入り、仕事でインテグリティについて考える機会があった。10年前、まだまだインテグリティという言葉も概念も一部の先進的な企業がその思想を企業経営に取り込んでいたにすぎない。敢えて英語圏の言葉(概念)をカタカナ表記にして企業経営に取り込むのは何故なのか?1つ確実に言えることは大企業のグローバル経営の影響によるものである。ある食品メーカーの方にこんな話を尋ねたことがあった。
「何故、あなたの企業は自社のバリューにIntegrityという言葉を引用して表現しているのですか?」。
その答えはこんな理由であったことを記憶している。
「海外の企業を買収し、現地のマネジャー達と自社のミッション・ビジョン・バリューを再定義する議論をした際に、Integrityを大切にしたいのでバリューの中に明記したいという話が、何度も現地マネジャーから提案があった。このことがきっかけとなり、グローバル共通のバリューの文言にIntegrityを使用するに至りました。当時、私たちも日本語訳で“誠実さ”なら当たり前のことだなと思っていましたが、よくよく聞いてみると非常に深い意味があり社員一人ひとりが正しくあるための根本的な考え方であることに気づかされました」。
私たち日本人にとって「誠実であれ」というのは、至極当たり前ではあるがこれを真剣に考える機会はそう多くなかった。そう考えると、江田島旧海軍兵学校の五省の冒頭の一文は「一、至誠に悖(もと)るなかりしか〔誠実さや真心、人の道に背くところはなかったか〕」であった。これを座右の銘としたのはキャノン名誉会長の御手洗氏だったと記憶している。私たち日本人の姿勢の原点はここにあったが、敗戦後はこれらの考え方が希薄化していった。(五省は海上自衛隊幹部候補生学校のHPに今でも掲示されていた)
更に、あくまでも主観であるが欧米と日本の価値基準との大きな違いの1つに信仰心があるように思う。欧米諸国の生活は、常に神(主に一神教)と共にある。日々神に感謝し、畏怖の念を抱きながら生活している。一方、私たち日本人は八百万の神であり、それを遡れば自然信仰の国民である。仮に欧米諸国の人々がIntegrityに悖る行為をしたとすると、それは神への裏切りに近い観念が潜在意識にしっかりと刻まれているのではないかと想像する。
日本人の潜在意識下にはどのような観念があるのだろうか。著名な彫刻家で、奈良県立美術館館長の籔内佐斗司氏と話したことが思い出される。籔内氏は日本人が元来持ち合わせていた真・善・美が損なわれつつあることをとても憂いていた。ご自身の奈良県立美術館・館長ブログからその一部を引用すると、次のように記されている。
ソクラテス、プラトンの時代から「真(Truth)・善(Goodness)・美(Beauty)」の追求は西欧哲学の中心命題であり、藝術が表現すべきテーマでもありました。これを具象化した「三美神(The Three Graces)」の絵画や彫刻は、古代ギリシア、ローマから、ルネッサンスを経て近代に到るまで、ヨーロッパで創られ続けられました。
わが国でも、「清く、正しく、美しく」は、人が身を修め、行動すべき道理の根本でした。「清い」とは、よごれやくもりがない清浄なさま、すなわち清らかで潔い倫理観・宗教観といい換えることができ、八幡信仰を持つ武家にとってなによりも大切な規範でした。「正しい」とは、偽りのない道理に叶ったさま、すなわち邪(よこしま)ではないということで、皇大神宮が表す神霊の正義をいい、天皇の正当性の証です。「美しい」は、醜くなく優れているさま、すなわち審美観をいいます。芸能や音楽の神である春日明神は、公家たちに美しくあることをなによりも求めました。
室町時代に、神が託宣したとされる日本人のあるべき「真善美」の姿を明文化した掛けものに「三社託宣(さんしゃたくせん)」があります。骨董市に行けばいくらでも見かけるものですが、その内容を知る人はわずかですし、今や床の間に掛ける人は絶無でしょう。三社とは、伊勢神宮と春日明神と石清水八幡宮です。天皇家に繋がる天照大神の伊勢神宮が「正」を、藤原氏(公家)に繋がる春日大社の春日明神が「美」を、武家に繋がる石清水八幡の八幡大菩薩が「清」を表し、皇室、公家、武家の日本の支配層のそれぞれの倫理規範であり、庶民は支配者がそれに倣って行動していれば安心でした。
<以下省略>
参照:https://www.pref.nara.jp/58242.htm
特に感心したのは最後の一説にある内容で「皇室、公家、武家の日本の支配層のそれぞれが、倫理規範に倣って行動していれば、庶民は皆安心して暮らすことができた」という点である。これは企業に準えれば、皇室・公家・部下の日本の支配層は、企業経営者や組織のマネジャーに置き換えて読み解くことができる。現代で言えば、職場の心理的安全性を保ち、リスク・マネジメントが適切に行われている状態と言っていい。そういった意味で、私たちは日本の歴史を振り返り、日本で大切にすべきIntegrityを誠実と短絡的に直訳するのではなく「真・善・美の精神=清く正しく美しくあること」と解釈すべきだと考える。日本的な考え方と思われそうだが、実は真・善・美の精神を一言で言い諭す言葉に「お天道様が見ていますよ」がある。これは一神教であれ多神教であれ、その本質は同じで世界にも充分に通じるはずだ。
最近は研究インテグリティ、スポーツ・インテグリティといった考え方も出てきており、当該関連組織では、ガバナンスやリスク対策としてインテグリティが活用されはじめている。研究インテグリティとは、研究の国際化やオープン化に伴う新たなリスクに対して、研究の健全性・公正性を意味するものだ。新たなリスクにより、開放性、透明性といった研究環境の基盤となる価値が損なわれる懸念や、研究者が意図せず利益相反・責務相反に陥る危険性が指摘されている。研究インテグリティは、内閣府をはじめ国が積極的に関わっており、それに呼応する形で経団連でも検討がなされている取組の1つである。
一方、スポーツ・インテグリティとは、「スポーツが様々な脅威により欠けるところなく、価値ある高潔な状態」を指すもので、JSC(日本スポーツ振興センター)は、平成26年(2014年)から「スポーツ・インテグリティ・ユニット」を設置し、八百長・違法賭博、ガバナンス欠如、暴力、ドーピング等の様々な脅威から、Sport Integrity(スポーツにおける誠実性・健全性・高潔性)を守る取組を実施している。
新しい言葉や概念で伝えていかないと、使い古された言葉では理解・浸透していかないのは困ったものだ。しかし、そうでもしないと、現場で起きる様々な不祥事を抑止することができなくなっているのも事実である。また、企業では、インテグリティの考え方を集合研修などで、お仕着せ型で教えていることが多いと聞く。そんな教育を実施したところで、真剣に捉え行動をあらためる社員が増えていくことは難しい。真剣に捉えるためには、個々人が自分の生き方をどうしたいのか、自分は何のためにこの世にあって、何を成し遂げたいのか?といった根本的な問いから始めねばならない。
もし、そこから考えることができるのであれば、自国の歴史と自分が育ってきた環境を顧みて、自分は何を感じて生きてきたのか、何を大切にしたいと思っていたのかを思い出してもらいたい。これらの事を言語化してみると、そこにはきっと真・善・美に通じる何かを思いだすことができるはずだ。
それくらい深く思考することができれば、個人のIntegrityは組織の力となり、私たちに本人が大切にしてきた「真・善・美」の価値を経営に活かすことが適うと信じたい。
No.320
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