みなさんは「距離」と聞くとどのようなことを思い浮かべるだろうか。地図アプリで見る目的地までの「距離」だろうか、大谷翔平の打ったホームランの飛「距離」だろうか、はたまた遠いところに住む想い人との心の「距離」だろうか。世の中にはいろんな「距離」が存在する。本稿ではその「距離」について改めて考察してみたい。
さて、事象を単純化することで複雑な世界を読み解くことを可能にする数学の世界では、「距離」は単に物理的な距離に限らず、抽象的な「空間」内で二点間の「間隔」を測る概念として定義される。距離を扱う空間を「距離空間(Metric Space)」と呼び、距離を測るためのルールを「距離関数(Metric)」と呼ぶ。このルールは以下の性質を持つことで定義されている。
※上記は、前提としてユークリッド幾何学をベースに話を進めているが、非ユークリッド幾何学との差などの詳細は本稿では割愛する。
これらの性質によって、空間内の「距離」を直感的かつ一貫したものとして扱えるようになり、数学特有のこのシンプルさが、物理空間にとどまらず、データ空間、色空間、抽象空間など、様々な場面での応用性を生んでいる。
小難しいことを書いたが、本稿で注目したいのは数学的な「距離」は、シンプルである一方でそのシンプルさゆえに様々な空間の構造を数理的に記述するために非常に広範な応用性・意味を持っているという点である。
文化人類学においても、その思考法のエッセンスは「距離」の捉え方にあるといわれている。というのもフィールドワークなどを通して五感を使って調査対象を捉える「近さ」を重視しながら、一歩離れて「遠さ」を有する比較対象を見出し思考することが文化人類学の基本的思考法になるからだ。参考までに「文化人類学の思考法」(参考文献)という書籍のまえがきの記述を引用したい。
調査対象との「近さ」と比較対象の「遠さ」。この「距離」が、文化人類学的想像力に奥行きと豊かさをもたらす。私たちの固定観念を壊し、狭く凝り固まった視野を大きく広げてくれる。それが世界の別の理解に到達するための可能性の源泉でもある。この「距離」は、必ずしも地理的・空間的なものだけではない。時間の隔たりも重要になる。~以下略~
数学の世界においても文化人類学の世界においても、「距離」の扱いが世界を意味づけるために重要な役割を持つという点において共通している。おそらくこれはビジネスの世界においても同様なのではないだろうか。
思えば「距離」の概念は古くから社会の基礎を支えてきた。物理的な「距離」があると、人やモノの移動に時間とコストがかかるため、経済や物流の構造にも大きな影響を与える。例えば、交通網の発展が物理的な「距離」を縮めたことで、より多くの人がさまざまな地域を行き交い、グローバルなビジネス展開が可能となった。私が住む武蔵野の地も江戸時代に都まで一日で行き来できる限界であった境の土地らしく、当時の農園がいまも生産緑地地区として残っている景色がちらほら目に入る。このような物理的「距離」が生む「つながり」は、地域の活性化や国際協力の拡大に貢献してきた。
物理的な「距離」がビジネスの要件であった時代から時間が流れ、文化的に成熟することによって生活者の欲求も人並みの生活がしたいという欲求から、人とは違う生活を、今ではより自分らしい生活をとその欲求は次第に変化してきた。そのような時代においては、生活者との心理的な「距離」をどうデザインするかがサービスの成否を分ける差別化要因として重要になってきているだろう。UX/UIデザインといったキーワードがメディアによく出てくることをみても明らかだ。
第一に物理的な「距離」、第二に心理的な「距離」を上げたが、では、これからのビジネスの世界では、どのような「距離」の捉え方が重要になっていくのであろうか。
メタバースが社会に浸透する未来では、物理的な「距離」の制約が解消され、私たちはあらゆる場所で誰とでもつながれるようになる。友人や同僚と「どこにいるか」を気にせずに同じ仮想空間で会話や交流ができ、仕事やレジャーにおける「距離」の意識も大きく変わっていくだろう。しかし、物理的な「距離」が消えたとき、私たちが求めるのは「心理的な距離の心地よさ」や「程よい関係性」といった、心の「距離」感になる一方で、メタバースでのつながりが増えるほど、現実の空間に戻ったときに感じる物理的な「距離」がむしろ貴重なものになるかもしれない。一人ひとりの生活者は、現実世界の「距離」と仮想世界の「距離」を常に同時に持ちながら社会と向き合うことが求められるようになり、それが当たり前になる時代がやってくる。そのような時代においては、上記二つの「距離」をどう巧みにデザインするかがビジネスの成否をわける大きな競争要因になるといっても過言ではないかもしれない。
例えば、情報セキュリティの観点でいえば、今までは個人情報は保護されるべき対象でありその秘匿性を重視する、そういった価値観がサービスを受ける個人にとっては当たり前になっていたが、これからの時代はその秘匿性は仮想世界で解放され、むしろ信頼できる企業に対してはオープンにした方がより自身にカスタマイズされた良質なサービスを享受できるという価値観が当たり前になるかもしれない。(中国で一般化しているアリペイの信用スコアなどはその“はしり”であるとみることができる)そういったプライバシー重視からパーソナライズ重視への価値観の転換、一言で言えば“Opennessの加速”が起きた際、サービスを提供する側の企業としては現実世界では秘匿性を重視しながら心理的「距離」を担保しつつ、仮想世界での利用者との心理的「距離」をよりオープンに解放することをデザインすることで他社と差別化されたサービス提供を進めることができるかもしれない。
「遠い」ものほど「近く」、「近い」ものほど「遠い」と感じるような来るべき逆説的な世界において、私たち自身も「距離」に対する新たな価値観を獲得することが属する社会や自身の生活のあり方をさらに進化させることにつながるのではないだろうか。
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参考文献|「文化人類学の思考法」松村圭一郎・中川理・石井美保 編
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